EQ COLLEGEコラム16
ゴジラ×感情

前回のコラムで扱った長嶋茂雄が戦後日本の高度成長を象徴する“光”だとすれば、対照的に日本人の感情の“影”の部分を代表するのがゴジラではないだろうか。

第1作「ゴジラ」が公開されたのは、1954年(昭和29年)。高度成長と呼ばれるものはその翌年の1955年に始まり、長嶋は1958年にプロデビューした。

第1作のキャッチフレーズは「水爆大怪獣映画」。核実験によって生み出された怪獣が、戦後からの復興途上の東京を破壊する物語だ。この映画のラストシーンのセリフは

「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない」

だが、その通り、環境汚染、災害といったその時々の日本が背負う課題の写し鏡のように制作され続けて来た。2010年代以降に入ると、「シン・ゴジラ」で官僚制に代表される日本の硬直化した社会システムがテーマになり、最新作の「ゴジラ-1.0」ではアカデミー賞の視覚効果賞を受賞。良くも悪くも?我々日本人の感情をざわつかせる存在。それがゴジラなのだ。

そのゴジラをテーマとした「ゴジラ・THE・アート展」が六本木の森アーツセンターで開催されているが、ゼネラルプロデューサーを務めた養老孟司さんは本展覧会に寄せて以下のようなメッセージを発している。(「ゴジラ・THE・アート展」2025年6月29日まで)

ゴジラは、地震や台風といった自然災害も含めた、災害のもたらした歴史や文化、歴史的に日本にある空気の象徴として、私の中にある。なにかうまくいえない、その形にならないものはゴジラとして姿を成し、動き出す。

しかし、感情を揺さぶられるのは日本人だけでない。“課題先進国”日本を象徴するゴジラという存在は、資本主義や近代工業主義が行きついたなれの果てや人間の醜悪さを描いているという点で人類共通の普遍的なメッセージであり、だからこそ世界でも人気を得ているのかもしれない。

また、ゴジラは人間だれもが持っているであろう“負の感情”も揺さぶる。ゴジラが街を破壊する場面になると、我々はある種の快感を覚えるのではないだろうか。これはフロイトが「人はなぜ戦争をするのか」で紹介した“死の欲動(破壊情動)”だ。ゴジラ作品は、そうした感情を映画という架空の世界の中で発散させる効果を有しているのかもしれない。

ゴジラは、戦争で亡くなった兵士の怨念がカタチになって日本に復讐している、という説もある。いま、トランプもラストベルト(錆びた工業地帯)の労働者の怨念を背負ったゴジラに例えられる。

死の欲動が架空の世界で発散されるのなら良いが、世界最大の国家元首がゴジラ化しているのだとすれば・・・。

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ジャパンラーニング執行役員 キャリアコーチ教育担当 酒井 章
1984年、電通入社。 クリエイティブ部門、営業部門を経て、2004年からのアジア統括会社(シンガポール)赴任時にアジアネットワークの企業内大学を設立。 帰任後は人事部門でキャリア施策開発に携わる一方、東京汐留エリアの企業・行政越境コンソーシアムを立ち上げる。 2019年4月に独立し、(株)クリエイティブ・ジャーニー設立。アルムナイ研究所をはじめ、さまざまな“越境”の取り組みに携わっている。
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